■ 小説を書くということ2025.11.29


A4で9枚の走り書きがある。
小説の材料だ。
これだけのものを、ボールペンで情けないような字で書いている。

何故パソコンに向かって、Wordでキーボードを打たないのか。
パソコンは、ブラインドタッチができないので、どうしてももたつく。
ところが、手書きだとスラスラと書き続けることができるのだ。
頭に浮かぶことを、素早く漏れなく書き留めるには、手書きに限るのだ。

前後の脈絡など気にすることなく、思いついたことを書きなぐる。
誤字、脱字、平仮名書き、カナ書き、気にせずに書く。
書いているうちに閃いた言葉を、忘れないうちに急いで書き続ける。
そんなやり方は乱暴なようだが、案外いいものが書けるものだ。

考えて考え抜いて、呻吟しながら書いた言葉や文章は、かえって理屈っぽくなりいいものにはならない。
だから新聞を読んでいても、食事をしていても、TVを観ていても、酒を呑んでいても、頭に言葉が浮かんだら、そこらにある紙に書きつけるようにしている。

一つの言葉が次の言葉を呼び、文章になっていく。
そんなものを後で読み直し作品にする。
だからといって、納得のいく作品に仕上がることは滅多にない。
文学賞を受ける者と、落選続きの自分との違いがここにある。

いつものことだが、走り書きしたものを読むと、何か胸に迫ってくるものがある。
それを練り上げパソコンで清書する。
書くことは好きだし楽しいものだ。
ところが、それが突然辛いものになる。
いいものを書こうとする自分との戦いになるからだ。
プロ作家の凄さを思い知らされる。

自分はプロではないし、書くことが好きなのだから、ただ楽しく書けばいいと思う。
書き上げたときの達成感、充実感さえ得られれば、それでいいではないか。
仮に読んでくれる人がいたとすれば忸怩たる思いだが、読んでもらえただけでいいではないか。
そう思って自分を慰め、鼓舞激励している。
一人漫才も捨てたものではない。

「小説を書くということは裸で表を歩くようなものだ」
そんな意味のことを、太宰治がどこかに書いていたような気がする。
自分をさらけ出すことが恥ずかしいと思っていては、小説は書けない。
ましてや、自分のために書くのであればなおさらだ。

2025.11.29




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