A4で9枚の走り書きがある。 小説の材料だ。 これだけのものを、ボールペンで情けないような字で書いている。
何故パソコンに向かって、Wordでキーボードを打たないのか。 パソコンは、ブラインドタッチができないので、どうしてももたつく。 ところが、手書きだとスラスラと書き続けることができるのだ。 頭に浮かぶことを、素早く漏れなく書き留めるには、手書きに限るのだ。
前後の脈絡など気にすることなく、思いついたことを書きなぐる。 誤字、脱字、平仮名書き、カナ書き、気にせずに書く。 書いているうちに閃いた言葉を、忘れないうちに急いで書き続ける。 そんなやり方は乱暴なようだが、案外いいものが書けるものだ。
考えて考え抜いて、呻吟しながら書いた言葉や文章は、かえって理屈っぽくなりいいものにはならない。 だから新聞を読んでいても、食事をしていても、TVを観ていても、酒を呑んでいても、頭に言葉が浮かんだら、そこらにある紙に書きつけるようにしている。
一つの言葉が次の言葉を呼び、文章になっていく。 そんなものを後で読み直し作品にする。 だからといって、納得のいく作品に仕上がることは滅多にない。 文学賞を受ける者と、落選続きの自分との違いがここにある。
いつものことだが、走り書きしたものを読むと、何か胸に迫ってくるものがある。 それを練り上げパソコンで清書する。 書くことは好きだし楽しいものだ。 ところが、それが突然辛いものになる。 いいものを書こうとする自分との戦いになるからだ。 プロ作家の凄さを思い知らされる。
自分はプロではないし、書くことが好きなのだから、ただ楽しく書けばいいと思う。 書き上げたときの達成感、充実感さえ得られれば、それでいいではないか。 仮に読んでくれる人がいたとすれば忸怩たる思いだが、読んでもらえただけでいいではないか。 そう思って自分を慰め、鼓舞激励している。 一人漫才も捨てたものではない。
「小説を書くということは裸で表を歩くようなものだ」 そんな意味のことを、太宰治がどこかに書いていたような気がする。 自分をさらけ出すことが恥ずかしいと思っていては、小説は書けない。 ましてや、自分のために書くのであればなおさらだ。
2025.11.29
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