■ 京のにわか雨2025.6.16


梅雨のシーズンに入った。
朝からジトジト雨が降り、湿気が肌にベトベトまとわりつき気持ちが悪い。

書斎の机に向かうと、どんよりとした空と灰色の風景が窓のスクリーンに拡がっている。
それをぼんやり眺めていると、気が重くなり何もやる気がしなくなる。
パソコンを立ちあげても書くことが億劫だ。
新聞も本も何度読み返しても頭に入ってこない。
二日も続けて歩かなければ、身体が鈍重になり心まで鈍ってしまう。
充実を欠いた心身に呑むビールはああ生きてるう″の感動がない。

カラっと晴れた日はさあやるぞ″と布団を上げる。
炊き立ての白いご飯は美味い。
納豆でも、卵かけでも、とろろ芋でも、塩マスでも、青菜のおひたしでも、ご飯には最高のパートナーだ。
パソコンに向かえばスラスラとエッセイが浮かび出て、リズミカルにキーを叩く音が楽しい。
エッセイを書き上げれば心に余裕が生まれる。
新聞も本も一字一句が頭に沁み込んでくる。

車で出かけ、お気に入りのそば屋でミニソースかつ丼おろしセット″に舌鼓を打つ。
腹が満ちればウォーキングだ。
定番のコースを1時間ほど無心になりたくて歩く。
ところが、あれこれと雑念が湧いて出て無心の境地には到底なれない。
風呂に入ってサッパリすれば当然ビール。
これが楽しくって生きているようなものだ。

雨の季節になると口ずさむ歌がある。
小柳ルミ子が次々とヒット曲を飛ばしていた1970年代、彼女が歌う「京のにわか雨」が好きだった。

 雨だれがひとつぶ頬に
 見上げればお寺の屋根や
 細い道ぬらして
 にわか雨が降る
 私には傘もない
 抱きよせる人もない
 ひとりぼっち泣きながら
 さがす京都の町に
 あの人の面影
 誰もいない心に
 にわか雨が降る
  作詞:なかにし礼
  作曲:平尾昌晃

ちょうどその頃だったと思うが、雨の京都をひとりで歩いたことがある。
何で京都に行ったのか、季節がいつだったのかは思い出せない。
だけども、雨の京都がとてもロマンチックで、そんな中を傘さして歩く自分が嬉しくてウキウキしたことを忘れられない。
おそらく密かに想いを寄せる女(ひと)がいたのだろう。
その女が自分に寄り添い歩いているような……そんな気分がたまらなかったのだと思う。

あの頃の青春には戻りようもないが、想いをめぐらすことはできる。
それをいつまでも大切にしていきたい。

2025.6.16




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