12月5日にこのエッセイで取り上げた、武田鉄矢の「ふられ虫の唄」が面白かった。 そこで、その続編ないしは姉妹編ともいえる「母に捧げるバラード」を読んだ。 この本も期待に違わず、面白くて何度も笑ってしまった。
何と云っても武田の母、イクしゃんの思いもよらないユニークさにインパクトがある。 しかも、その話すことに妙な説得力があり、感心させられてしまった。 今回はその言葉の数々、イクしゃん語録″を取り上げてみたいと思う。
下手なコメントや感想は蛇足だと思う。 読んでいただければ解ります。
なお、書名の「母に捧げるバラード」は、武田率いる海援隊の最初の大ヒットの曲名である。
「母に捧げるバラード」の構成は、次のようになっている。 これらの中から、順次紹介していこう。 第一章 少年時代 煙草屋の母と子 第二章 青春から朱夏へ 恋とフォークと博多の街 第三章 旅立ち 福岡教育大学と海援隊の夢 第四章 思えば遠くへ 結婚、そして東京の街角で
私は母にたずねた。 小学二年生の私に理解できない言葉があったのだ。 「ねぇ、かあちゃん・・・・・・生活保護ってなん(何)?」 「あんまり貧乏やけん、国からホウビが出るったい」
私は八つぐらい、とても憂うつなことがあった。 月謝と給食費の滞納である。 肩身の狭さに母に泣きついた。 「母ちゃん、はよう月謝と給食費持っていかな、俺恥ずかしか・・・・・・」 「なぁもあわてんで良か。小学校は倒産せん」
イクしゃんはキリスト教に染まった。 「どうも牧師の言うことが信じられんて」 「何が信じられんと?」 「イエス様は処女マリア様から生まれたと牧師さんは言おうが。処女じゃ子供は出来ん」
私の恋した人は、私が扁桃腺(へんとうせん)を腫らしたとき、我が家まで見舞いに訪ねて来た。 「母ちゃん、あの娘(こ)かわいかろう」 「若いうちは何でもかわいかよ。ヘビの子供でも、小さいうちはかわいか」
凄まじい勢いで私の創った歌は売れ始めた。 『母に捧げるバラード』だ。 コンサートはテレビで生放送された。 私の泣いている顔を見て、イクしゃんは画面の私に呟いていたという。 「泣くんやったら、出てゆくな」 「あんたの歌テレビで聴いた時は、実の母ばここまでバカにする息子がおるかと思うたよ。ばってん、あんた泣きながらあの歌を唄おうが・・・・・・。あんたの歌より近所の人の誉め言葉ば、うれしゅうて・・・・・・」
一度だけ、私は今後の身の振り方を相談すべく帰郷した。 「母ちゃん・・・・・・、俺も頑張ったばってん、もうつまらんごたあ。コンサートも客が入らんけん、出来ん」 イクしゃんは自分と私のコップに酒を注ぎ、「乾杯!」と叫ぶ。 「つまらんと思うて運命をあきらめるから、つまらんごとなる。乾杯! 乾杯! って、つまらん時でも喜んどったら、福の神が勘違いして寄ってくる」
昭和55年、私にまた娘が生まれた。 私が空を見上げている時にうまれた子、『空見子』と名付けた。 イクしゃんから電話があった。 「ソラみた子にならんごと、気をつけなねえ」と、不吉な冗談を言って、電話の中でひとりガラガラ笑った。
親父は相当危なかった。 私を除いて、兄と姉三人は病院に呼び寄せられている。 鉄矢も呼ぼうという話になった時、イクしゃんが止めた。 「あれは男芸者やけん、日本全国が御座敷たい。芸者が座敷を放り出して帰られるか。あいつは一時間いくらで働きよる。電報打つなら、父ちゃんが死んでからでよか。でないと、入る金も入らんごとなる」
イクしゃんが、法事のたびに金がかかってならぬ、と嘆いたことがある。 それで大金百万円を差し出した。 母は現金を懐へ素早くしまい込むと、意外な行動に出た。 正座したまま畳に額をこすりつけ、大音声(だいおんじょう)を発した。 「どうもありがとうございました」 子である私があわてた。 「親子だから、他人に頭を下げるごとせんで良かよ」 イクしゃんの理屈はこうである。 「養って、飯を食わせるうちは親子でございますが、違う巣で子供が飯を食い始めたら、もう他人でございます。日本中探しても、こげな婆さんに大金を恵んでくれる他人は、そうおらんです」
イクしゃんに一度だけ、嫌味を言ったことがある。 「俺を生んどいて良かったなぁ」 イクしゃんは、さらりとこう言った。 「五人子供を生んどきゃ、どれか当たる」
2025.12.29
|