■ 再び「走り書きしたメモ」−4−2025.12.18


走り書きしたメモには、女性に関することが多いようである。
それだけ女性の存在感が気になるのか。
それとも女性への負い目があるのか。
あるいは女性に恋しているからか。

今回取り上げるのは、女性への負い目について走り書きしたメモである。
自分の年齢のことを前提にすれば、負い目というより卑屈になっているように思えてならない。
恥をかくのは覚悟の上だ。
それよりも、つくづく歳は取りたくないものだと思う。

H私は過去に生きる人間で 貴女(あなた)は未来に生きていく人間だ

(※)私は子どもの頃から、実際の年齢よりも若く見られることが多かった。
小学5年生のとき、わが家を訪ねたオジサンから「1年生かな」と訊かれたことがある。
中学生のとき、農協の窓口のオバサンから「ボク」呼ばわりされたことがある。
学生時代歳相応に見られたことはなく、年下から「オマエ」となめられることはいつものことだった。
社会に出てからも、まともに歳を見られることはなく、「オイ ニイチャン」とバカにされたことが何度かある。
どれだけ悔しい思いをしたか知れない。

ところが、35歳を過ぎた頃から気にしなくなった。
若く見られても20代ということはなく、30代には見られているようだったからだ。
仕事をする上で年齢は、その能力を測る尺度になる。
30歳は、その尺度を満たす最低条件になっているようだ、ということが分かったからだ。
それからは若く見られることを、自分の強みと意識するようになったし、仕事がやり易くなった。

女性に対しても、何となく同じような意識を持つことになった。
だがさすがに、この歳になると、女性に若く見られても戸惑うばかりだ。
仮に、想いを寄せてくれる女性がいたとしても、心の中で叫んでしまう。

私はこの先が短く未来よりも過去を懐かしんでいる人間だ。
貴女はこの先が長く過去よりも未来に夢と希望を持っている人間だ。
そんな貴女が過去に生きる人間にその夢や希望を託すことをしてはいけない。
その夢も希望も過去にこだわる人間にはカゲロウのようなものでしかない。

わが身の歳の負い目と卑屈さが、見事にこのメモに表現されている。

Iオレなんか10万キロも走ってガタガタになった車だよ
ポンコツを修理して乗るようなもんだ
どうにかごまかしてヨタヨタ走っているんだ
あとどれだけ走れるかわからん
磨きあげたクラッシックカーは ちょっと見にはいいもんだけど 最新の車にはとても及ばない
若いのなら新車にしろよ! 乗ればわかるよ

(※)これは余計なコメントは必要ないだろう。
歳の負い目と卑屈さが、情けなくストレートに投げ込まれている。
「人生まだまだ! あと10年!」
どんなに強がっても、70歳を過ぎれば死がそこまできている。
それが現実なのだ。

2025.12.18




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