どうにか納得のいく小説が書けた。 100枚程度の作品だが、随分思い入れのあるものだ。 タイトルは『遺すべき言(こと)』とした。 S社の新人賞に応募することを決めていた。 最近は、原稿をEメールで送信するのがトレンドだが、やはり手書きの生原稿を封筒に入れ、ポストに落とすのが、気分としてはいいものだ。 福井で、会計事務所を開業して30年になる。 11月の終わり、事務所で昼食を摂っていた。 いつもの塩昆布と梅干だけのシンプルな弁当である。 粗末なようだが、かえってこれがご飯の甘みが引き立ち、旨いのである。 お茶代わりの豆乳とデザートのバナナで、栄養状態を考えているつもりだ。 そのとき電話が鳴り響いた。 「S社から電話です。きっと通ったんですよ」 職員のY子には、新人賞応募を伝えてあったので、いつにない興奮気味の口調で取り次いできた。 「S社のKです。このたびのあなたの応募作品が、選考委員会で受賞作と決定いたしました。おめでとうございます」 「・・・・・・はいはい、ありがとうございます」 思わず2度も頭を下げてしまった。 電話を置くと喜びが全身を突き抜けた。 「やった。とうとうやったぞ」 両手を握り天に突き上げた。 「良かったですね。おめでとうございます」 Y子が手を差し伸べてきた。 その手を強く握り、上下に激しく揺さぶって応えた。他の職員は何ごとかと立ち上がり、事務所内はざわついた。 その日の午後は仕事が手に付かず、今後のことをあれこれと考えていた。 大阪の友人に受賞を知らせると、わがことのように喜んでくれたが、彼はひとこと付け加えた。 「これからが大変やなあ」
慌しくなったのは、翌朝からだった。 9時に事務所に出ると、3回線ある電話全部が鳴っており、その後、職員が対応するものの終日鳴り止まなかった。 S社からは、授賞式と出版打合せに来社せよとのこと。 地元のローカル紙F新聞社からは、取材申し込み。 同じく地元ローカルTV局のF放送からは、出演依頼。 文章修行に通っていた大阪の文学教室からの、講演依頼。 他にも、取材申し込みが殺到した。 当然私は仕事にならない。 事務所としても電話が機能しなくなり、仕事が回らなくなってしまった。 さっそく翌日、事務所でF新聞社の取材を受けることになった。 女性記者は文学好きのようで、経歴ばかりかちょっとした文学論まで、案外鋭い質問をしてくるので驚いた。 カメラマンが、私ばかりか事務所内にまでカメラを向け始めたので、職員に注意させた。その翌々日は、F放送に招かれ、地元同人誌『N作家』を主宰するT氏による、インタビューの録画撮りに半日が費やされた。 F新聞には、1面の左側中ほどに、5段抜き顔写真入りで掲載された。 F放送では、夕方のニュースで報じられ、日曜日の朝のローカル番組で15分間放送された。 その後、各方面からの取材や講演依頼が相次ぎ、スケジュール調整に苦慮させられることになった。 地元のJ大学文学部では、4月から客員教授として、文学概論の講座を持つことになってしまった。 講演に出向いたのは、母校の高校が最初だった。在校当時の教師は1人もいなかったが、校舎の所どころにその頃の出来事がよみがえり、懐かしく楽しかった。 どこにも文学好きはいるもので、講演後にサインをしてくれという生徒と教師が押しかけてきた。 幸い、事務所の職員が有能なので、仕事は何とか流れを取り戻してきていた。
ようやく嵐が過ぎ去り、とりあえずの落ち着きを取り戻したのが、仕事納めとなる12月28日だった。 溜まった自分の仕事を片付けるため、その後も事務所に出たが、大晦日は、家に帰ったのが除夜の鐘が遠く聞こえはじめたころだった。 さすがに、正月元旦は電話もなく静かだった。 のんびりしたのはその日だけで、2日からはさっそく仕事である。 それにS社から依頼された、次の作品も書かなくてはならない。 受賞作は出版が約束されていたが、1冊の本にするには100枚では物足りないため、さらに100枚程度の併載する作品が必要なのだ。 書きたい作品は、新人賞を受賞した時点で決まっていた。 タイトルも決めていた。 『遺された人(もの)』である。 受賞作『遺すべき言』の続編であり、これで遺す側と遺される側両者からのアプローチがなり、完結を果たすことになる。 S社の担当編集者は、新人賞受賞を知らせてきたKであり、東京からわざわざ事務所に訪ねてきた。 彼は、私が書きかけていた30枚の原稿に目を通すと、今度の作品は受賞作の続編ではあるものの、独立した1つの作品として書くことを強く求めてきた。 読者が作品のどちらを読んでも、どちらを先に読んでも、それで完結させるようにするのである。 私は、ちょっと戸惑ったが、さっそく書きかけのものを手直しし、残り70枚も調子よくペンが進み、3月の半ばには書き上げることができた。 幸いKやS社の反応も上々で、4月には初めての著書『遺すべき言』が出版された。 この本はS社の販促戦略にのり、発売1ヶ月で3万部を売り上げ、増刷が追いつかないほどだった。 S社によれば、テーマがテーマだけに、現役をリタイアした団塊の世代を中心に、熟年層に売れているとのことである。 女性の読者も多いらしいが、私にしてみれば狙いどおりだった。 地元の有力書店であるM書店はS社の協力を得て、県内16店と県外8店の全店で特設コーナーを展開し、『遺すべき言』の大量陳列をしてくれた。 私も土日には各店でサイン会に応じている。
そして、次の台風がやってきた。『遺すべき言』の2つの作品が、その年の上半期A賞候補になったのである。 さすがA賞、周囲の騒ぎは新人賞どころのものではなかった。 文学に縁も興味もない者でも、A賞の重みだけは知っているようで、友人や親戚、知人、仕事先などから、祝福の電話が押し寄せてきた。 まだ受賞したわけではないので、彼らの興奮をなだめるのに苦労した。 大体が、実質的に初めて書いた作品で、しかも初めての候補であるのに、そう簡単に受賞などするはずがないではないか。 F新聞には今度も1面にデカデカと載るわ、TVではF放送もNHKもニュースで流すわで、火に油を注ぐことになってしまった。 県は名誉県民にするといい、市では私の名を冠した文学賞を創設するといいだした。 事務所では職員が電話と来客の対応に追われ、とうとう仕事は完全にストップしてしまった。 自宅の方にまで電話や来客があり、カミサンはその応対にノイローゼ状態になり、挙句に実家に逃げ帰ってしまった。
いよいよ選考の日がきた。私はその日、東京のある料理旅館で、朝から焼酎のお湯割をなめていた。 まさか、1回目の候補で受賞することなどないと思っていたが、S社のKの勧めもあり、発表会場にすぐ駆けつけられるようにしていたのである。 Kから携帯に電話があったのは、酔いが回ってしまい、うとうとしていたときのことである。 「先生、やりました。受賞ですよ。『遺すべき言』が、N文学振興会のA賞選考委員会で、今年上半期の受賞作と決定したんですよ。おめでとうございます。先生、これから忙しくなりますよおぉ」 「はあ・・・・・・どうも・・・・・・あり、ありがとうございます。あのお・・・・・・嘘じゃあないでしょうね。ホントに・・・・・・私でよかったんでしょうか・・・・・・」 「あら、ちょっと、お客様。寝っころがって、何モゴモゴおっしゃってるんですか。大丈夫ですか」 旅館の女将が肩を揺さぶった。 重い身を起こすと、念入りに髭をそり髪に櫛を入れた。 背広に着替え急いで表に出、タクシーを見つけようと目を凝らした。 見慣れた自宅前の風景が、飲むのはいい加減にしろと笑っていた。
2013.3.19
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