会議室を出てから駐車場に向うまで、秋江は池田と野島からおおきく遅れて歩いた。 その顔に池田は事の切迫を思い、2人を食事に誘った。 「何がいいですか」 聞いても返答はない。 これからのことを考えれば2人とも食欲などあるはずがない。 池田は「私に付いて来てください」と、行きつけのそば屋に向った。
あっさりしたものがいいだろうと、ざるそばの注文を済ませると、池田は努めて明るく言った。 「いやあ、それにしてもよかったですね。消費税17,000円で済んだじゃないですか。あの統括官がメモ1枚で押し捲ってくるとは思いませんでしたけど、なんとかなりました。上出来ですよ。どうです奥さん、私が言ったとおりでしょう」 「ええ、ありがとうございました。消費税はいつまでに払えばいいんですか」 「そうですね。2、3日うちに納付書をお渡ししますので、なるべく早く納めておいてください」 そばが運ばれてくると、池田は勢いよくひと啜りした。 「ここのそばはコシがあって美味いですよ」と2人に勧めた。 今回の調査結果は、税理士である池田にとって充分納得のいくものだった。 なじみのそばが、いつもよりはやく喉をすべっていった。 残った汁にそば湯を注ぎじっくりと味わい、お茶を飲みながら2人が食べ終わるのを待った。
池田は、野島と秋江を2人だけにしてはいけないと考えた。 「奥さん、この後しばらく社長さんをお貸し願えませんか。どうでしょうねえ、社長さん。ちょっとうちに寄っていきませんか」 秋江の運転する車が、駐車場から出て行くのを見送ると、池田は野島を自分の車の助手席に座らせた。
事務所には10分ほどで着いた。 「社長さん、あのときは税務署の手前もあって、渡辺さんの生活費ということにしておきましたけど、本当のところはどうなんですか」 野島は応接室のソファーに深く座ると、腕を組んだ。 「奥さんだってこのままじゃ済みませんよ。私にできることがあれば遠慮なく言ってください。長いお付き合いじゃないですか」
心地よいノックの音を立て、いつもの笑顔で職員の木村とも子がお茶を持って入って来た。 「社長さん、税務調査たいしたことなくてよかったですね。私、社長さんが喜んでいらっしゃると思ってたんですけど。どうしたんですか」 木村は野島屋を担当して10年になる。 お互い気心は知れていた。 「社長さん、元気出してくださいね」 彼はわずかに口元を弛め、軽く手を振って木村を見送った。
野島はお茶を一口すすり、ひと呼吸おくと残りを呷った。 「あの金はやりたくてやったものじゃないんです。真理がくれと言うものですから」 「渡辺さんはその金を何につかうんですか」 「片山が糸引いているのは分かってるんだけど」 「片山さんが……。社長さん、なんだかよくわかりませんね」 「センセ、あの2人はグルなんですよ。片山が競馬に負けたりすると真理が金をせびってくるんです」 「生活費ならともかく、そんな金あげなきゃいいじゃないですか」 「……」 「社長さん、断れない理由があるんですね」 「真理が片山と別れた後、時々様子を見にアパートに顔出してたんですけど……。いや、もちろん助けてやろうと思ってね。実は……真理と1回だけありまして……」 「なるほど」 「真理は片山とよりを戻してから、そのことを話したんだ。片山はそれをネタに」 「なあるほど」 「真理だってそうだ。何か欲しいものがあると催促してくるようになったんです」 「それでわかりました」
「センセ、秋江には……なんて言えばいいもんか」 「それは私に任せてください。でも、ちょっと待ってくださいよ。これはまるで美人局じゃないですか。社長さんは2人に恐喝されているんだ」 「美人局……か。そうかもしれないな」 「社長さん、いつまでこんなこと続けるつもりですか。奥さんだって黙っていませんよ。もう待ったなしです」 「……」 「社長さんがその気になればなんとかなりますよ。とにかく、やるだけのことはやるべきだと思いますけどね」 「そうだなあ……。センセ、どうしたらいいんですか」 「私の知りあいに弁護士がいます。大学が同期で信頼できる男です。彼に頼めばなんとかしてくれるでしょう。事情は私の方から話します。2人にたかられなくなるんなら、弁護士費用など安いもんですよ」 野島はソファーに浅く掛け直すと、背筋を伸ばした。 「それから奥さんには、片山が店を首になったのを逆恨みして、競馬の金欲しさに知り合いのヤクザを使って脅してきた、ということにでもしておきましょう」
池田が窓を開けると、野島の髪がそよいだ。 「センセ、いい風ですね」 2羽のツバメが連れ舞うのが見えた。
2013.1.8
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