その日がきた。 池田が税務署の駐車場に車を停めたのは、約束の10時には15分も前だったが、野島は先に着いており秋江と車に乗ったままだった。 池田が声をかけると、いかにも緩慢に野島が降りてきた。 見慣れた表情を失った顔はふてくされて見える。 「センセ、私も行かなきゃ駄目ですか」 秋江が化粧を忘れた顔を向けてきた。 「奥さん、少しでも早く結果がしりたいでしょう。そして楽になりたいでしょう。命までとられることありませんから」
2人は池田から3歩4歩も離れて付いて来た。 受付で来意を告げると、30前後と思える女性職員は、「黒田から聞いています。どうぞこちらへ」と、気持ち悪いほどていねいな態度で、広い会議室に案内してくれた。
待っている間、山中と秋江は黙ったままだった。 税務署がどんな材料を盾に迫ってくるか、池田も緊張の一瞬である。 何度経験してもいやなものだった。
「やあ、どうも」 黒田がやって来た。 黒田の後には、あの日調査していた2人がついて来た。 さらに初めて見る男が3人も入って来た。 池田は、そのうちの若い2人が店の方を粗探ししたのだと思った。 50年配の男が最後にドアを閉めた。 黒田はその男を「うちの統括官です」と紹介した。
統括官は池田らの上司で、民間会社の課長に相当する。 彼は身分証明書を呈示することなく、「早川です」と言っただけだった。 池田は座ったまま黙っていた。 調査に関わったからといってその全員が同席することはないと、税務署のやり方に違和感を持ったからである。 黒田と統括官の早川だけで十分と思った。 6人もの職員が相対して並ぶことで威圧感を与え、とんでもないことを押しつけてくるのではと警戒した。
山中と秋江は今どんな思いをしているか、それが哀れでならなかった。
統括官の早川が口火を切った。 「先生どうでしょうね。現金商売というのは、売上がなかなか正確にあがってこないものです。実は支店のゴミ箱からメモが1枚出てきたんです」
彼はそのコピーを池田と山中に配った。 「ご覧のように、3,360円分の注文を受けたものです。これがちゃんと売上にあがっているかどうか、レジペーパーの控えをチェックしたのですが、見当たらないんですよ」 早川はいきなり調査結果の要点を切り出してきた。
山中屋では客から注文を受けると市販の注文伝票に記入し、調理場のカウンターに順番に並べることにしている。 ところが、店が混んできたり客が急かせるような場合には、その場で新聞のチラシなどを切って作ったメモ用紙に書き留め、注文伝票には後で書き込むのである。 当然メモは棄ててしまう。 早川はそのメモを疑っているである。
彼は結論を急いだ。 「どうでしょうね。1日3,360円とすると、月25日営業で年間300日ですから、100万円ほどになるのですが、それで3年分修正してもらえませんか」 早川が3年分の修正申告を求めてくるのは、あくまでも行政指導でしかない。
池田はその余りの理不尽さに、荒ぐ自分の口調を抑えることが出来なかった。 「ちょっと待ってください。冗談じゃないですよ。たった1枚のメモを盾に取って、それで毎日売上を除けているようなことを言って。たまたま書き損じたものかもしれないじゃないですか。なに言ってんですか。推計課税もいいところじゃないですか」
推計課税は、今回のようにごく一部の事実から全体を推測して課税することであり、原則的に禁じられている。 税務署は、調査に基づいた納得のいく課税根拠を納税者に示す必要があるのだ。
早川は大事なことを思い出したような顔をして、「いやあ、そんなことではないんですけどね。ただ売上が洩れているようですから」と言って、池田から目をそらした。 「なんですかまったく。売上ごまかす余裕なんかあるもんですか。借入の返済だって厳しいのに。大体が赤字なんだし、そんな必要ないんですよ」 「いやあ、それも分かりますけどねえ」と、なかなかしぶとい。 「統括官。それじゃごまかした売上金はどこへやったというんですか。何か証拠でもあるんですか」
池田の勢いに煽られたかのように、野島が口を開いた。 「私は売上をごまかすような、そんなことは絶対やってません。いつも正直に生きているつもりです。あんまり無理なことは言わんでください」 秋江も赤味のさした顔で言った。 「うちの人の言うとおりです。私らは真面目にやってます。お願いですから信じてください」
池田が追い討ちをかけた。 「とにかく、売上の修正には応じられませんから」 早川は天井を仰ぎ視線をゆらがせると、静かに立ち会議室を出て行った。 残った職員たちがざわつき始めたが、黒田の質問がそれを静めた。
「野島さん、山中由季子さんというのはどなたですか。その人の預金通帳には毎月10日頃、1万円前後の振り込みがあるんですが」 野島は黒田を睨みつけたが、すぐ視線をテーブルに落とした。 「由季子さんは上の息子の嫁……」 「社長さん、これは自販機業者からの手数料ですよね。確か店の表に飲み物の自販機が置いてありましたね」 黒田は秋江が話し終らぬうちにたたみかけてきた。
2つの店には全部で5台の自販機が置いてある。 由季子の通帳のことは今初めてしったことなので、池田の事務所では当然所得に計上していない。 池田は自販機を見過ごしていた迂闊さを悔やんだ。
「これは会社で契約しているんですよ。預かった書類の中に業者と野島屋さんとの契約書がありましたからね。これは立派な所得隠しじゃないですか」 黒田は鬼の首でも獲ったような声をあげた。
「社長さん、なんで由季子さんの通帳に振り込ませたんですか」 池田が聞いても、野島はテーブルに置いた右手を握り締めるだけだった。 「センセ、すいません。由季子さんがなにくれとなく、ホントに一所懸命やってくれるもんですから。お小遣いにと思って」 今度も秋江が答えた。
「分かりました。それじゃあ黒田さん、これは修正します。3年分でいいですか」 池田はこんなことで黒田とやり合う気はなかった。 ひと月1万円なら3年間で36万円になるが、消費税17,000円程度の追加納付で済むからである。 池田からの修正申告の申し入れを黒田は受け入れた。
2人のやりとりが終わると他の職員は出て行った。 彼らにとっては、結論が出てしまえば同席している意味がないのである。
黒田は持ち帰った資料を野島に返すと、その受領証に印鑑を押すよう求めた。 (これで終わった。大山鳴動して鼠一匹か) 池田は満足だった。
2013.1.8
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